認識している世界の違い
サルバドール・ダリが好きです。
(多分一番有名な)『記憶の固執』
天才かつ変態で、しかもイケメン(あくまで私の個人的見解です)。
もうダリ本人が芸術の域。
結婚してください。
私が初めてダリの絵をそれとして認識したのは実は最近の『怖い絵展』だったのだけど、
そこに怖さは一切なくて、なんて官能的な作品たちなのだろうと思ったのを覚えています。
一番のお気に入り『奇妙なものたち』
『素早く動いている静物』
『ポルトリガトの聖母』
小さい頃に見た、ムンク以来の衝撃でした。
(話は逸れますが、ムンクは『叫び』が有名ですが、実はキスの絵(接吻、他)も多くてこれもまた扇情的なのです。)
絵に限らず、芸術に触れることが好きなので、
時間があれば美術館に行ったり、演奏を聴いたり。時には落語やサーカスなんかも。
新しい作品に触れたときにいつも感じるのは、
私が認識して見えている世界と、
私以外のあらゆる他人が認識している世界には大きな相違があるということ。
特に芸術家、アーティストと呼ばれる人たちとは、住んでいる世界が違うくらい明確な差があると思うのです。
それは感覚や感性といった可視化できない曖昧な要素によるものだけでなく、
その人の持つ知識量や経験値、体調、気分、さらには生い立ちいわば半生に至るまで、全てを総合した違いが反映されているように思います。
そして、同じ知識を持っていても、興味関心の対象が違えば、また違う色で見えるということ。
例えば、新しい言葉を覚えた後に、その言葉がよく目に付くように。
例えば、同じ女性を見たときに、顔か胸か脚かはたまたお尻か、それぞれ視線が異なるように。
もっと深いところの話をすると、
誰一人として同じ世界を認識していない、ということを「認識」しているかそうでないかでは、人生そのものの生き方も変わってきます。
自分に見えていても相手には見えていないものがあるし、
相手が抱いた感情とまったく同じ感情にはなりえない。
その差異を埋める一つの手段が、『共感力』なのではないでしょうか。
つまり共感力は、(後天的に身につけることのできる) 知識量であり経験値であると思うのです。
あの人が何を考えているのか分からない、のは、相性が悪いとか、性格が合わないのではなく、
実は同じ世界が見れるだけの知識や経験が自分に備わっていないだけなのです。
突き放したり拒絶したりすることは、自らが学び成長することを放棄しているのと同義、
「どうせ分かってくれない」と諦めるのは、ただ自分の経験値不足を露呈しているようなもの。
逆に言えば、共感力を鍛えることで、
他人が見ている世界を疑似体験できる。
これってすごく楽しそうじゃない?
大好きなあの子の見ている世界をこっそり覗き見ることができるなんて!
ちょっと話が変な方向に逸れてきたので今日はここまでにします。
共感力と仕事の関係まで書きたかったんだけど、それはまた今度。
最後に。
ダリよりも私が一番官能性を感じる絵をご紹介して終わりにします。
エロスしかない。